「無いもの」ではなく「有るもの」を見ること

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もうすぐ平昌オリンピックですね。リオオリンピックからもうそんなにたったかと思うと恐ろしさしかないですが、その時にnoteで書かせて頂いた記事をすこし修正の上こちらに再掲します。

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ここ最近、パラリンピックを見ながら、無意識のうちに選手たちの「無いもの」を見てしまう自分とそう思うことは非常に失礼だ、人としてどうなんだ、そんな自分はおかしいのではないかという気持ちの板挟みで苦しかった。

私は小学生の時に構音障害(ひらがなのいくつかの音が上手く発音できなかった)でしばらく通級指導に通っており、それもあって卒論では日本のODAにおける障害児教育をテーマにしていました。

にもかかわらず、今更こんな感情が出てくるとは自分でも?なのだけれども、出てきたものはもうどうしようもないので、これを機に考えたことを整理してみようと思います。

なぜ、パラリンピアンの「障害」に目がいくのか、それは私自身がいつも自分の「無いもの」ばかりを見ていたからなのかもしれません。

人によって「有るもの」は違って、でもその「有るもの」をどれくらい必死で最大限使うのか、大事なのはそこのはずなのに。

オリンピックのアスリートを見て多くの人が共感し応援しやすいのは、「有るもの」が我々と同じ(ではないのだろうがそのように見えやすい)からで、パラリンピック選手をみる目線はそもそも「想像」の上に成り立っているが故に、簡単に「大変そう」「可哀想」という方向に流されがちになります。

けれど、それに流されずにパラリンピックに出場している選手を見てみると、一アスリートとして「有るもの」を最大限に使って高みを目指していることが私たちにもわかります。

私は将来子どもに関わる分野の仕事がしたいと思っていますが、そうした分野から考えてみると、私たち(少なくとも私)のこれまで受けてきた教育も、「無いもの」に目を向けがちだった気がします。

「~ができるAちゃんは本当に優秀だ、それに比べて私は…」のような。
勿論競争は悪いことではないと思います。パラリンピックも競争だし。

ただ、教育の目的のひとつは今「自分が」出来ない/分からないことが出来る/自分なりに解釈出来るようになること、それを積み重ねて子どもたちが自分の「有るもの」に気づき、それからの人生を生きていくための力を身につけてもらうことだと思うのです。

これから生きていくなかでも、仕事をしていくなかでも、「有るもの」をしっかりと見ることができるひとになりたいと思います。

長くなってしまったけれどそんなことを思ったのでした。
今晩からは少し違う気持ちでパラリンピックが見れるかもしれません。

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